先日、縁があって天理市の天理教の本部教会への参拝の機会を得ました。
この日は、おりしも天理教の120周年の記念大祭の真っ只中で、市内は海外の信者などでごった返しておりました。
広大な本教会の社は四方から参拝出来るような形体をとっていて、宗教の総本部にしては非常にオープンな雰囲気に驚き感嘆いたしました。
ここには24時間、いつでも自由に入って参拝が出来るのだそうです。
結界の張られた四方の真ん中の御柱が立っている空間は天井がなく、ここから天上の神と繋がっているのだそうです。
案内していただいた教会長さんに従って見よう見まねで柏手を打ち参拝をしていると、穏やかだが凛ととした波動がしんしんと感じられてきたのです。
鞍馬山などの霊山で感じられると同じような高い波動が、天上から御柱を伝わってくるのです。
あっ、この波動を受けるために遠くから、わざわざ信者たちは訪れるのだなと思いました。
伝え聞く話によりますと、この天理教の始祖の中山まきという方は、手当てで人々の病を癒した霊能者だったそうです。
それこそ軌跡の超能力者だったのでしょう。
その行いと教えが人々に感動と尊敬の念を与え、大きな宗教まで発展させたのです。
ところで、同じように手当てで人々を癒すレイキは、なぜ宗教にならなかったのでしょうか?
なぜ臼井甕男先生は教祖に祭り上げられならなかったのでしょうか?
ボクの行っているレイキのことを 参拝をしながら不遜にも考えてしまいました。
レイキは靈授(アチューンメント)という方法でマスター(ティーチャー)という先達が、誰もがレイキを使えるようにしてくれます。1回の靈授で後は伝えられたレイキと繋がることが出来、その後マスターとの接点はなくとも永久にレイキを活用できるようになります。
それだけではなく、マスターの力を借りることなく瞑想や実践によりレイキの力は増し、ヒーラーとして独自に成長できるのです。
それに対し宗教は、教祖のみがその力を独占し、信者はその力(ご利益)を授けてていただくという一方通行の受身な関係なのです。したがって基本的には、瞑想などによる自己成長を許していません。
もっともレイキのように、その力の行使する能力を個人に委ねてしまったら、宗教は成り立たなくなる訳ですが・・・
レイキの素晴らしい所は、そういった能力の独占を許さず自由に個人に委ねた点です。
その無欲無為の精神がこそ、世界で300万人とも500万人とも愛好者がいるというのに、宗教のようなピラミッド型の組織が存在しないという所以なのでしょう。
(かって、フィリップ社というメーカーが、録音カセットテープのパテントを独占しないで解放した結果、世界のカセットテープが同一の規格で普及できたとという業績と共通する精神を感じます。)
このことは臼井先生の偉大さなのか、その後を継いだ後継者達の無欲さの結果なのか、その真意は不明ですが、あらためてレイキの素晴らしさとスゴさを感じました。